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逆ピグマリオニズムの人形愛 The Doll's Love of reverse Pygmalionism
季刊インターコミュニケーション 2001年秋 No. 38
 

巻頭に「あなたも日本人の女性って、人形のようだと思いません?」という言葉が掲げられている。かつて谷崎潤一郎は、その『陰翳礼讃』の中で、衣装からわずかに顔と手足だけを白く浮き上がらせた人形のような女について語ったことがあるが、マリオ・Aの「人形」は、着物に身を包んで闇の中に潜むわけではない。ときにセーラー服をまとうことがあるにしても、ほとんど常に全身をさらし、あらゆる姿態をとるマネキンのような「人形」である。被写体の原サチコは、その丸い顔、見開いた大きな眼、小さな乳房、成熟しきれぬ少女のような平板なからだつきによって、まさしく「人形」そのものと化す。ベルリンの骨董屋にあったスーツケースに収められた彼女は、日本への旅に出る。この旅の仕掛け人がマリオ・A(マリオ・アンブロシウス)というわけである。

スーツケースに詰め込まれたこの「人形」ぶりが面白い。関節のところで手足をもがれて断片化した姿が迫真的である。人工の部品がさりげなく利用されている。スーツケースから出された彼女は、ベルリンの広場に、ビルの片隅に、デパートのショー・ウィンドウに、ベッドの上に、カフェのテーブルに、書斎に、日本の旅館の一室に、神社に、温泉に、そしてついには水の中にと次々と場所を移しながら、「無機的」な全身をあらわにするのだが、その無機性・人工性を確かなものにするために腕と脚の関節部分に黒い線が刻まれている。「人形」の全身は,この非連続の連続によって構成されている。ハンス・ベルメールは,人形の関節ならざる箇所を強引に非連続化し、そしてそうした箇所同士を結びつけて連続化することで異様なオブジェをつくりあげたけれども、マリオ・Aのr人形」は、あくまでも通常の関節部分にこだわる。この「人形」の自然らしさ、優しさは、そこから来ている。いずれにせよ、特異な「人形愛」の書というべきだろう。

ところで澁澤龍彦は、「人形愛の形而上学」(1973)なるエッセーにおいて、「『人形愛』という新造語を初めて文章の中で使ったのは、たぶん私だろうと思われるが、当初の私の意向では、この言葉は、ヨーロッパで用いられるピグマリオニズムの翻訳語のつもりだった」と書いている。しかし「人形愛」という言葉は、「人形を愛すること」という意味の曖昧さのまま、生命のない人形(ひとがた)を生命あるもののように愛するというピグマリオニズムの本来の意味と、逆に生命ある人間を生命のない人形のように愛するという意味とを、ともども含むものとして用いられるにいたっているようだ。澁澤は、「少女コレクション序説」なる1972年のエッセーにおいて、この後者の問題を採り上げている。彼はそこで、「女の主体性を女の存在そのものの中に封じ込め、女のあらゆる言葉を奪い去り、女を一個の物体に近づかしめれば近づかしめるほど、ますます男のリビドーが蒼白く燃えあがるというメカニズム」に触れ、「エロティックなオブジェ」としての「少女」を主題化しているのだ。生命のない対象に生命を与えるのではない。逆に、生命のある対象を生命のない物体に変容させること、これはピグマリオニズムとしての「人形愛」ならぬ、逆ピグマリオニズムとしての「人形愛」というべきだろう。

マリオ・Aの「人形愛」が、逆ピグマリオニズムとしてのそれであることは明らかだ。人形を人間のように愛するのではなく、人間を人形のように愛すること。あるいはむしろ人間を人形と化してしまうこと。写真という瞬間の石化の装置は、そのための卓抜な手段である。写真は、そもそも生命ある対象を死せる対象へと転換する道具にほかならない。マリオ・Aは、写真のそうした特性を最大限に活用する。ちなみに、逆ピグマリオニズムの物語のわが国における比較的早い例として、例えば木々高太郎の『睡(ねむ)り人形』(1935)を挙げることができるが、なんといっても川端康成の小説世界こそが、一貫して逆ピグマリオニズムの様相を呈していると見るべきだろう。『眠れる美女』(1961)と『片腕』(1964)が、その究極の姿である。三島由紀夫は、『眠れる美女』の解説において、この小説を「観念的淫蕩の極致」と呼んでいる。

澁澤が「男のリビドーが蒼白く燃えあがる」と形容し、三島が「観念的淫蕩」と呼んだものを、マリオ・Aの写真集に見てとることができるだろうか。人はここに「淫蕩」とはまったく異なる、むしろ脱=性化した静謐な世界を見るかもしれない。視覚性は、しばしば観念性に背馳するからだ。視覚性と観念性とのそうした相克が、この写真集の意味と言えば意味であろう。それにしても「人形愛」とは不思議な言葉だ。人形を人間のように、人間を人形のように愛すること。人間と人形との微妙な距離こそが、欲望を喚起する。この欲望がr愛」にほかならないのだとすれぱ、しかし人はいったい何を愛するのだろうか。

たにがわ・あつし一1948年生まれ.東京大学大学院博士課程修了。國學院大学文学部教授(美学)。著書=『形象と時間』(講談社学術文庫)、『幻想の地誌学』(ちくま学芸文庫)、『鏡と皮膚』(ちくま学芸文庫)、『芸術をめぐる言葉』(美術出版社)など。

TANIGAWA Atsushi 谷川渥
©インターコミュニケーション No.38 Autumn 2001 [page 152-153]